elcami70の日記

平凡だけど平和で幸せな夫婦生活を送っています

あヽ

岩魚を食べてから、木曽方面に向かって国道を走っていたら、野麦峠の看板が見えてきました。
その看板によると、この先20キロとなっていました。
 
行こうかどうしようかずっと迷っていた場所でした。
なぜなら、地元の人たちは、別に何もないよーっておっしゃっていたから。
 
でも、随分昔、あヽ野麦峠っていう映画を見た記憶があり、なんだかどんな峠なのか気になったし、折角その辺りまできているんだからということで、向かってみました。
 
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幼い頃にみた映画だったので、内容ははっきり覚えていませんが、なんか可哀想な印象だったようなきがします。繭をお湯に浸けて、絹の糸を紡ぐ若い女の人たちが主人公で、過酷な労働をしていたような映画の内容だったかな???
 
まぁ、いってみるとしましょう。
 
看板の通りに車を走らせると、そこに見えてきたのは、古い学校でした。
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すごく古い校舎です。
看板には野麦学舎と書かれていました。後で調べてみると、ここで宿泊できるらしいです。
隣には、野麦館といって、お食事処があって、ここも泊まれるらしいです。私が訪れた日は、あいにく休業していらっしゃいました。
 
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クネクネした山道を登っていくと、やっと見えてきましたー。
野麦峠の資料館。
 
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中に入ってみると誰もいなくて、、、
それもそのはず、、、
閉館間近に行ったので、お掃除をしていた管理人に声をかけてみると、時間は大丈夫とのことで、
案内とちょっとした説明をしてくれるということでした。
折角なので、野麦峠のことを聞かせていただくことにしました。
 
 

 
あゝ野麦峠』(ああのむぎとうげ)とは、山本茂実1968年に発表したノンフィクション文学だそうです。
 
映画では、飛騨からの出稼ぎ女工の特に悲惨な面を強調して描かれているが、原作においては、百円工女の恵まれた環境や、糸値に翻弄される製糸家の厳しい実情などにも言及し、詳細な聞き取り調査のもと、日本の貧しく苦しい時代背景を、強く浮き彫りにするように描かれている点が、多くの読者に評価されている。映画では、飛騨からの出稼ぎ女工の特に悲惨な面を強調して描かれているが、原作においては、百円工女の恵まれた環境や、糸値に翻弄される製糸家の厳しい実情などにも言及し、詳細な聞き取り調査のもと、日本の貧しく苦しい時代背景を、強く浮き彫りにするように描かれている点が、多くの読者に評価されている。

野麦峠

◆野麦の集落から6キロ。飛騨と信州の国境に位置する野麦峠は標高1672mです。峠の辻には、お助け小屋が復元され、売店・食堂・宿泊施設として利用できます。また山本茂美作あゝ野麦峠の工女政井みねが、兄に背負われた石像が広場中央にあり象徴的です。

◆明治の後半、生糸は日本の輸出額の3分の1を支えていました。現金収入の少ない飛騨の農家では、12歳そこそこの娘達が、野麦峠を越えて岡谷の製糸工場へ「糸ひき」として働きに出されます。2月末に飛騨を出て5泊6日で工場に着き、12月末に帰省するまで働きました。
朝5時から夜8時までの長時間労働、熱さ、湿気、さなぎの悪臭という大変な労働環境です。

◆工女政井みねは、14歳頃から毎年製糸工場へ出稼ぎに行きました。3年後に「百円工女」(年収)と呼ばれる優等工女になります。当時の百円は、驚くことに家が一軒建つほどの価値です。 
 
みねは20歳の時、信州・岡谷の工場で病気(腹膜炎)になります。
みね危篤の電報を受け取った兄は、160キロの道を寝ずに歩き通し
わずか2日で工場に到着しました。そしてみねを背負い4日間で峠に登ります。
野麦峠に辿り着いた時、みね『ああ飛騨が見える、飛騨が見える』と嬉しそうに言いました。
そしてそば粥を一口飲み、息を引き取ったそうです。明治42年11月20日のことです。

その後兄は、明るい日中に遺体を背負って村々を歩けないので夜歩き5日後、家に帰り着きました。
 
 
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想像しただけでも、なんか切なくなりました。死んでしまった妹を背負って、暗い道をひたすら歩く。
辛い辛いことだったと思います。
 
それから、館内の一室で15分ほど放映される野麦峠の歴史を見ました。
当時のことを語る、おばあちゃんになった方の話を聞いているだけで、また切なくなりました。
でも、当時は米1俵が4円だったそうで、100円の収入があることに、彼女たちは誇りをもっていて、裕福な暮らしや、楽しみが沢山あったということでした。
映画では、悲劇ばかりが世間に浮き彫りにされていたみたいです。
 
館内に入ってすぐに笹が置いてありました。
これはこの地方が野麦峠と呼ばれるようになった理由がわかりました。
隈笹は50年~60年に一度実をつけるそうです。
 
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今回は、ハイキングコースになっている、旧道も、資料館のすぐ裏の山のほうで亡くなった、みねさんのお墓にも行けませんでした。
 
 
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時間があるときに、また立ち寄る事ができたら、山歩きしてみたいと思います。
   
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そして、本当は、幼い頃に冷たい雪道を何日も歩いて移動した彼女たちは、幸せだったんだと聞いて安心しました。高山のお祭りを楽しみにしていたそうです。それから、お正月、帰るのを楽しみに、寒い寒い山を越え家に帰って行ったそうです。
そしてまた、雪が解ける前に、工場に戻って一生懸命働いたそうです。